毎年秋に改定される最低賃金は、人件費に直結するため、経営者にとって最も重要な経営指標の一つです。
近年、最低賃金は全国的に大幅に引き上げられており、特にパート・アルバイトといった時間給で働く従業員を多く抱える企業にとっては、経営戦略の大きな見直しが求められています。
本記事では、最低賃金引き上げによって経営者が直面する具体的な課題と、特に社会保険や扶養の壁に絡む注意点について、当事務所がある愛知県の事例を交えて解説します。
このページの目次
1. 最低賃金引き上げが経営に与える直接的な影響
最低賃金の引き上げは、人件費の増大というコスト面だけでなく、採用や配置、賃金体系そのものに影響を及ぼします。
① 人件費コストの増大と賃金改定
最低賃金の引き上げは、その時給で働く従業員の賃金を直接引き上げます。
しかし、注意すべきは、最低賃金ギリギリで働いていた従業員だけでなく、既存の賃金体系を維持するために、最低賃金を上回っていた従業員の賃金も連鎖的に引き上げる必要が生じることです(ベースアップ)。
これは、従業員間の公平性やモチベーションを保つために必要不可欠な対応であり、企業全体の総人件費を押し上げます。
② 採用競争の激化
特に人手不足が深刻な地域(例:製造業やサービス業が盛んな愛知県の都市部)では、最低賃金に近い賃金で募集しても、優秀な人材どころか、人材そのものの確保が難しくなりつつあります。
例えば、愛知県の最低賃金が引き上げすると、競合他社も同時に賃上げを行うため、企業は最低賃金を大きく上回る魅力的な時給や福利厚生を用意しないと、人材獲得競争に勝てなくなります。
2. 経営者が最も注意すべき「社会保険・扶養の壁」問題
最低賃金の引き上げは、パート・アルバイト従業員の働き方に直結する「社会保険の加入基準」と「税法上の扶養」の問題を複雑化させます。
この問題の焦点は、主に主婦のパート・アルバイトやダブルワーク(稼ぎたいがゆえに仕事を掛け持ちするフリーランスを含む)の層です。
①【社会保険】「106万円の壁」の再燃
社会保険の加入義務は、主に労働時間と賃金によって決まります。
特に法人・常時5人以上の者を使用する個人事業者(法定17業種)では、以下の要件をすべて満たすと社会保険(厚生年金・健康保険)への加入が義務付けられます。
これが一般的に「106万円の壁」と言われるものです。
・週の所定労働時間が20時間以上
・月額賃金が88,000円以上(年収約106万円以上)
・雇用期間が2ヶ月を超える見込み
・学生ではない
最低賃金が上がると、これまで「月額88,000円未満」に抑えて社会保険に加入しなくて済んでいた従業員が、働く時間を変えなくても、時給の引き上げによって自動的に88,000円を超えてしまうケースが増加します。
【重要】賃金要件の撤廃予定
社会保険の加入対象の拡大に関する法案により、上記のようなケースを防止するため、「8.8万円以上」の賃金要件は2026年10月をめどに撤廃される予定です。
この賃金要件の撤廃により、社会保険に加入しないで働きたい層の労働時間を減らさずに済むことになります。
② 【税法】「130万円の壁」と「103万円の壁」
社会保険の壁以外にも、税法上の扶養に関する以下の壁があります。
103万円の壁: 所得税がかかり始めるライン。
130万円の壁: 配偶者の社会保険の扶養から外れるライン(自ら社会保険料を全額負担する必要が生じる)。
時給が上がると、「扶養内で働きたい」と考える従業員は、年収がこれらの壁を超えないように労働時間を減らすことを希望する人も増えてくるでしょう。
けれども、これらの問題に対して国も対策をしていないわけではありません。
令和7年度税制改正では、物価高や賃金引き上げに合わせて103万円の壁が160万円(ただし扶養基準は123万円)に引き上げられました。
このように最低賃金引き上げにより働きたい人や雇用側の負担にならぬよう、法改正も行われています。
経営者は常にこれらの情報をチェックし、社会保険労務士や税理士と連携をとりながら、従業員がそれぞれの働き方を尊重される、働きやすい職場を目指していく必要があります。
3. 経営者が取るべき対策:労働力確保のための施策
経営者にとって最も避けたいのは、時給引き上げにより従業員が労働時間を減らした結果、総労働力が減少し、売上に悪影響を及ぼすことです。
「扶養内で働きたい層」に寄り添う政策が、優秀な人材確保の鍵となります。
① 賃金シミュレーションの実施
最低賃金の改定後、各従業員の時給と労働時間をシミュレーションし、どの壁を超えるかを事前に把握します。
② 扶養を外れて働くことのメリット提示
社会保険加入による将来の年金増加、保障充実について正確に説明をしたり、福利厚生の利用(例:小売業での商品券や手当の支給など)や、正社員登用などのキャリアアップを提示します。
③ 長時間労働を可能にする環境整備
育児中の従業員など時間の制約がある方が安心して長時間働けるように、企業内保育施設などの整備を検討します(ただし、大きな資金が必要なため、ある程度の規模の企業で検討可能)。
④「壁を越える働き方」への優遇
壁を超えてフルタイムに近い働き方をする従業員に対し、昇給や手当の優遇を行い、労働時間減少を防止します。
4.人件費引き上げへの対策:生産性向上とコスト削減のための施策
最低賃金の引き上げは避けられませんが、それに伴う人件費の総額増加を防ぐためには、「総労働時間を減らすことなく、少ない労働力で同じ、あるいはそれ以上の成果を生み出す」効率化戦略が不可欠です。
そのためにも従業員一人あたりの生産性を高める業務効率化とIT化の投資は、避けて通れない経営課題です。
① 業務プロセスの見直しと自動化・省人化
まず、業務の徹底的な効率化を図ります。
受発注、在庫管理、顧客対応などにAIやSaaSツールを導入するDX/ITツール導入は有効です。
これにより、定型業務の工数を減らし、既存の従業員でカバーできる業務範囲を広げ、総労働時間の削減に繋げます。
また、設備の自動化・省人化として、製造ラインへのロボット導入や、小売業でのセルフレジ、自動発注システムの導入などを進めます。
これにより、労働力不足に陥りやすい業務から従業員を外し、重要な顧客対応やコア業務に集中させることができます。
さらに、既存の業務フローを徹底的に洗い出し、重複作業や「なくても困らない会議・報告書」を廃止するなど、業務プロセスの見直しを行います。
無駄を排除することで、労働時間あたりの付加価値を高め、人件費増加分を吸収する生産性向上を実現します。
② 労働の最適配置と戦略的な外注活用
次に、正社員のコア業務集中を進めます。
専門性の高い業務や顧客対応など、正社員でなければできない業務に集中させ、その他の業務はパートやシステムに振り分けます。
これは、高い賃金を支払う従業員が、最も付加価値の高い業務に従事する労働の最適配置を目的としています。
そして、外注(アウトソーシング)の戦略的な活用も重要です。
専門性の高い業務や、繁閑の差が大きい業務は外部に委託することを検討します(例:経理・給与計算業務の専門家への委託、繁忙期のみの人材派遣の活用)。
その目的は、固定費である人件費を、変動費である外注費に振り替えることで、経営の柔軟性を高めるためです。
なお、アウトソーシングには税制上のメリットもあります。
通常のパート・アルバイト人件費と違い、外注費は仕入れに該当するため、かかる消費税分が控除の対象となり、納税する消費税額を削減させることが可能です。
③ 適正な価格設定(値上げ)の検討
効率化やコスト削減だけでは吸収しきれない人件費の引き上げ分は、最終的に商品やサービスの価格に反映させる検討が必要です。
「値上げ=顧客離れ」と恐れるのではなく、「人件費を適切に支払い、サービスの質を維持・向上させるための適正な価格設定」であると、顧客に対し丁寧に説明し理解を求めることが重要です。
低賃金に依存しない、持続可能な価格戦略への転換こそが、企業の存続を左右します。
【補足:両輪での戦略が重要】
これら「効率化の施策」「適正な価格設定」と、先の「労働力確保(扶養内層に寄り添う施策)」を三位一体で実行することで、労働力不足と人件費増加の双方のリスクに対応できます。
5. 地域事例:愛知県の経済と最低賃金の課題
自動車産業を筆頭に製造業が盛んな愛知県は、全国的に見ても経済規模が大きく、特に最低賃金の動向が注目されます。
愛知県の最低賃金が引き上げすると、地域経済全体に以下の影響が生じます。
① 製造業のコスト増
多くのパート従業員を抱える自動車部品メーカーなどの人件費が増加し、製品価格への転嫁が課題となります。
② サービス業の慢性的な人手不足
名古屋市などの都市部では、最低賃金引き上げ後も、より高時給の製造業や専門職に人材が流れやすく、パート・アルバイトでがメインで現場を回している飲食業や小売業での人手不足が慢性化する可能性があります。
愛知の経営者は、単に最低賃金をクリアするだけでなく、地域経済全体の賃金水準と競合他社の動向を把握し、競争力のある賃金体系を構築することが不可欠です。
まとめ:賃金体系の見直しと将来設計の提示を
最低賃金の引き上げは、単なるコスト増ではなく、賃金体系を抜本的に見直し、優秀な人材を引きつけるチャンスでもあります。
経営者は、従業員に対し、社会保険加入による「将来的なメリット」や「壁を越えて働くことの価値」を積極的に伝え、不安を取り除くことが、安定した労働力確保の鍵となります。
最新の社会保険制度や賃金改定は複雑なため、現状の制度に合わせた最適解を見つけるには、専門家のサポートが不可欠です。
山本聡一郎税理士事務所では、賃金体系の見直しや税務戦略について寄り添ったご提案を行います。
また、信頼できる社会保険労務士との連携体制を整えておりますので、労務と税務の両面から、安心してお任せください。
山本聡一郎税理士事務所 代表税理士。1982年7月生まれ。名古屋市中区錦(伏見駅から徒歩3分)にてMBA経営学修士の知識を活かして、創業支援に特化した税理士事務所を運営。クラウド会計 Freeeに特化し、税務以外にも資金調達、小規模事業化持続化補助金などの補助金支援に力を入れている。
